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言葉は鎧から、お守りになった。文筆家・佐々木ののかが開く、次の扉

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「ちょっと待ってくださいね、今考えています」

彼女はいつも、自分の言葉を一つひとつ確かめている。

この表現は適切かどうか、相手を傷つけてはいないか……。

そんな彼女が伝え方についてここまで考えるようになったのは、最近のことだと言う。

 

“家族と性愛”をテーマに文筆業を行なう、佐々木ののか。

今年6月には初の著書『愛と家族を探して』を刊行。さまざまなパートナーシップの在り方にまつわるインタビューやエッセイを届けている。

 

彼女にとって、“書く”ことはどのような行為なのだろうか。

そして、それはどのように変化しつつあるのだろうか。


生きるために書いていた


最近は、“書く”という行為の手前にある、感覚的なところを大切にしています。そこで触れてきたもの、感じてきたものは最終的に“書く”ことになるかもしれないけれど、書くために得るのではなく、摂取して、抽出したものが文章になるんだと思います。

話を聞きながら、彼女は“書く”ことを手放すのかもしれない、と感じた。

それは“書く”ことをやめるのではない。さまざまな選択肢のひとつに“言葉”がある状態だ。

そう思えるようになったのが最近だとすれば、これまで、彼女にとって“書く”ことはどのような行為だったのだろう?

彼女の“書く”ことへのはじまりは、5年前、25歳の頃に遡る。

前職を辞めてライターを始めたばかりの頃は、「とにかく自分の気持ちを言語化したい」という気持ちでいっぱいでした。それを身近な人たちが「面白いね」と言ってくれたおかげで、だんだんと仕事になっていったんです。


幼い頃から周囲に「何を考えているか分からない」と言われてきた彼女の近くにあった、言葉。

当時は、“わかってほしい”気持ちを強く抱きながら書いていた。

彼女にとって文章を書くことは、時間を止めて自分のものにすることだった。

文章を書くことって、綺麗な蝶を捕まえて標本にするのと似ているな、と感じていて。自分が素敵だと思ったものを、自分だけがいいように留めていた、というか。そのときは大事なものだから書かざるをえなかったけれど、今振り返れば、いろんなものを踏みにじっていたのかもしれないな、と思います。でも、そう思えるのも書き続けていた今だからこそな気がします。


彼女は“家族と性愛”をテーマに、インタビューやエッセイの執筆、イベント登壇などをしている。

“家族”と“性愛”は、昔から興味があった分野だった。

「“家族と性愛”って真逆だよねとよく言われるし、それぞれがタブーのように思われがちだけれど、私は近接領域だと思っているんです」と、静かに言葉を選びながら、彼女は話す。


怖かったんです、たぶん。今は関係性が変わることを前提だと思えるけれど、昔は「一生親友だよね」とか、「ずっと一緒にいようね」とか、永遠の約束がないと安心できなかった。「そうじゃないと“好き”って言えるの?」とすら思っていて。ずっと恋人しか頼れなかった私は、“家族”と“性愛”……つまり恋愛を持続可能な形でやっていくにはどうしたらいいかという問題意識を持っていたのかもしれません。

学生の頃から、信頼できるのは恋人だけだった。だからこそ依存して、一生の約束を求めていた。

でも、別れは訪れる。それに耐えきれなくなった彼女は、どうしたら自分を“運用”できるのかを考えた。

寂しくなってしまうのなら、外に恋人を作るのがいいのか、複数の人と同時に付き合うのがいいのか……。

関係性が変わっても安心して生活するにはどうしたらいいのだろう、と。

2年前、彼女は離婚を経験した。


たとえ内情は破茶滅茶でも、一緒に暮らしていなくとも、籍だけは入れていたかったんです。戸籍は安心できる場所だったし、自分の帰る場所ができた気持ちだったので、そこの軸はぶらしたくなかったのかもしれません。


入籍時にはすでに“家族と性愛”を掲げて活動していた彼女。

さまざまな関係性の在り方を知っていたものの、「“普通”の妻」という型を演じてしまう自分に驚いたと言う。

育った家庭の影響からも“家族”への意識は強かった。

「結婚しておけば離れることはない」と本気で信じていた。

その気持ちは、執着にも近いのかもしれない。


今まではスクリーンに写した自分の理想像と恋愛している感じだったんです。もちろん好きではあったけれど、それはその人に“なりたい”自分に恋愛していたというか、相手が不在のままだったんです。結婚相手には心を許せたのですが、もともと隠していた、気性が激しい部分が出てきて。暴力性を持っている自分と向き合うようになり、価値観が変わっていきました。


彼女は、結婚生活を「内省を深められた」と振り返る。

お互いに向き合えたかどうかは、わからない。

それでも、自分がこれまで抱えていた寂しさや自分の弱さには気づけた、大切な時間だった。


言葉は、お守りに


彼女は、フックをかけるように記憶する。

一度気になることがあると、頭の中にフックがかかるのだ。

まさに“家族”と“性愛”もそのひとつで、誰に何を言われても無視し続けることができないくらい、彼女にとって身近なものだった。

彼女は、まるでかかったままのフックを整理するように書き続けた。

書くことは、生きるためにも必要な行為だった。

“性愛”で言うと、前職で性被害にあったときから恋愛関係の旋律がおかしくなっていて。それ以降、基本的に恋愛、性愛は暴力だと感じていたので、セックスも大切な人との“愛し合う行為”だとは思えなかったんです。


そんな過去を背負いながら、“家族と性愛”にとことん向き合った、数年間。


少しずつですが、やっと、恋愛が暴力じゃないと思えるようになってきました。


これまで“できない”と思っていた関係性を構築できるかもしれないという、新たな希望が見えてきたと同時に、“家族と性愛”について今までと同じやり方で書き続けることに限界を感じはじめてきたと言う。

公私ともに“家族と性愛”を追求してきたのですが、まだ見ぬ可能性に出会いたいと思うあまり、心身の限界を省みずに進み、体調を崩してしまったんです。その結果、自分の中の暴力性やケアを怠ってきたこと、そして、ひとりでは生きていけないことに気づきました。まだ答えはわからないけれど、人と接点を持ちながら生きていく方法を模索しているところです。


自分の暴力性を自覚した上で、誰かと関係性を築くにはどうしたらいいか?

彼女は考え始めた。

その答えは、もしかしたらコミュニティにあるかもしれない。

もしかしたら、みんなでご飯を食べる空間にあるかもしれない。

彼女は思考を巡らせる。

最近、言葉を扱いたくないと思っていた時期もありました。


言葉は直線的で、刃物みたいなものだと、彼女は例える。

届きやすいけれど、余白はない。

誰かを傷つけたくないと思うようになってから、彼女はエッセイが書けなくなってきた。

言葉と向き合い続けた結果、言葉の解像度も上がり、自分の言葉にもすぐ傷つくようになった。

最近読んだ本に「都市の時間は直線で、田舎の時間は年輪」みたいな話があって。都市はまっすぐで、進化を常に求められるけれど、田舎は季節に合わせて稲作をしたり、行事があったり、“回る”時間の流れ方をしている。だから、どこで死んだとしても堆積した時間の一部になれるんです。それを知って、「円環のなかなら私はひとりじゃない」と思えたんですよね。老いて身体をコントロールできなくなる分、ひとりでまっすぐ走り続けるだけだと不安はなくならないけれど、円環なら共同体が培ってきた歴史の一部として埋葬してもらえるんじゃないか、って。


そうして、言葉を武器にひとりで歩いてきた彼女が、共同体の一部として生きることについて考えるようになった。

円環を作るために、そして、その一部になるために、まず地盤を固めようと思えるようになったから。


言葉の鋭さに傷つくことが増えてきた彼女は「つい最近までは言葉と仲違いしていました。でも、今は仲直りしつつあります」と話す。

扱い方さえ間違わなければ、言葉には言葉の仕事があると思い直せて。これからは、今はまだ現実に存在していないような「場所」を表すような文章を書いていきたいです。言葉で社会を拡張していく作業……と言うんでしょうか。人の気持ちが楽になる、毛布になるような文章が書きたいな、と思います。


今、彼女は文章を書くことで狼煙をあげている。

誰かに言葉を投げかけたり、響かせようとしたりするのではなく、静かに、だけれどしっかりと光っている。

「私はここにいるよ。だから安心してね」と。

彼女にとって、文章を書くことは生きるために必要な行為だった。

それがだんだんと変化しているのは、彼女が“言葉”と向き合い続けたからだろう。

コミュニティに属したり、一緒にご飯を食べたり。言葉でない方法を持った上で、“書く”という選択肢がある状態は、「言葉しかない」と思いながら走っていたときよりも彼女を強くしてくれるのかもしれない。

彼女は、“言葉”というお守りを大切に抱えて、また一歩、はじまりの扉を開く。


POSTED

2020-10-21

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