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こんにちは真夏の妊婦さん、そして彼女の文章を読む|わたしに読む交換日記

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サヨナラは誰にでも、平等に必ず二回やってくる。
つまり、その人が死んでしまったときと、残された人たちがそのことを忘れたときに。

最近なら、フェイスブックやインスタグラムやツイッター、その残されたデータに、誰も訪れなくなったときが二度目のお別れなのかもしれないな。いや、もしかしたら、インターネットにずっと残された文章が僕たちの二度目の別離を遠ざけているようにも思えるけれど、しかしそれでも。

要するに、サヨナラには、身体的なものと記憶的なものがあるということなんだろうな。
やっぱり、記憶だけでは風化してしまうし、アーカイブされた記憶は、人生の影に過ぎない。「あいつ、おもしろい奴だったよね」と言ってくれる友だちがいなくなったら、それが二度目のサヨナラというわけだ。花に嵐のたとえもあるしね。


そしてもちろんサヨナラの前には、コンニチハがある。
今、僕が書いている(そして今、あなたが読んでいる)本稿は、僕と(京都の出版の相棒)土門さんとの出会いについて寄せた文章だ。つまり「僕の土門さんの第一印象」についてがテーマだ。
しかし困ったぞ。終わりがふたつあるように、僕の土門さんの第一印象も実はふたつあるから。

それは、このふたつ。
1.2016年の夏、後輩を介して路上で直接出会い「30代の書き手としてズ抜けてうまい」と紹介されたとき。
2.同、彼女の文章を、まとまった量を短期間で読み、確かにうまいと唸ったとき。
さて僕は、どちらを「第一印象」と言えばよいのだろうか。

言葉通りに考えれば、時系列の一番早いものが第一印象だろう。それが一番フェアだと思うから。
しかし僕には「彼女の書いた文章を読んだとき」も、土門さんと初めて出会ったように思えてならない。それが語義的には、第一印象という言葉から遠いはずだとしても、なお。


土門さんは、小学生の頃から「書くこと」で、自分を慰めてきたみたい。
書くことで考えて、書くことで理解する。最も身近な箱庭療法。
彼女にとっては、それが日記だったり、文章を書くことなんだと思う。いつだったか忘れたけれども、土門さんはそんなことを言っていた。


ところで、ちょっとだけ話がそれるけれど、そもそも文語と口語って違うものだ。
取材などのテープを聞いたり、そのまま文字に起こしたものを読むといつも驚くけれど、僕たちは「えーと」とか「うーん」とか「そのー」みたいな、間を取るための言葉を思ったよりも多用しているし、実は同じ情報を繰り返していたり、主語や目的語が抜けていたりする。とにかく、口語は文章のていを成さない。

しかし、それでいい。
だって、対面や映像ならば表情や身振りが、音声ならば声量やトーンやリズムが、口語の場合はそれぞれ情報外情報になるから。そして、それらが豊かに情報を補完して、きちんとその場では伝わるから。
だから、それでいい。

土門さんとはじめて直接、出会ったときに、僕は彼女を「ゆっくりと話す人だな」と思った。まるで自分の発する言葉を、一度、目の奥で推敲してから話しているみたい。
文語と口語のあいだに位置するその話しかたは、本を読んできた人のそれだ。

そういうこともあって、信頼する後輩が勧めてくれることもあって、僕は土門蘭の文章が読みたいと思った。
文語作法を使って口語で話す人は、口語作法を使って文語で書ける人でもある。
口語作法は文語の行間を作るときに有用だ。
それがすべてではないけれど、それがいつもではないけれど、そういう文章は強くなることが多い。



土門さんには、やたらアンプに詳しいイケてる旦那さんと、やたら図鑑が好きなやさしい長男くんがいる。
加えるならば、はじめて直接出会ったときにはおなかの中に、やたら好奇心がギョロギョロしている次男くんもいた。
つまり、そのときの土門さんの記号的な出会いの側面は、ワンピースを着た夏の妊婦さんだったわけだ。

このように、直接出会ったときのことは、もちろん覚えていて、それはとても印象的だった。
けれども僕には、同時に彼女の文章を読むまでは、先入観を切り離してもいた。
文章とは、作家にとっては本人そのものだったりするけれど、読み手にとって、作家というキャラクターがノイズになることがある。読み手にとっては、作家と作品は別のもので、できれば僕は、作家に会う前に書かれた文章と出会いたい。


話がいろいろとそれてしまったけれども、とにかく、そのように家族と暮らす土門蘭は「子育て帖」というエッセイをインターネットで書いていて、僕はその文章を最初から、読ませてもらうことにした。

そして、土門蘭の文章はとてもおもしろかった。
加えるならば、やはり、強い文章でもあった。

「子育て帖」は連載だから、文体が安定しない時期もあるし、長い年月を跨いでいると環境も変わってきたりする。文章のトーンやマナーは、媒体や環境に依存をしたりもする。しかし、そんな表層的な誤差はともかく、僕が土門蘭の文章をいいなと読んだのは、彼女は一貫して自分の為に文章を書いていたからだ。

たとえば、自分の子どもが大きくなったときに、この文章を読めばどう思うだろう、とか。
たとえば、同じ子育てをする友人がこの文章を読めばどう思うだろう、とか。
そういう躊躇がほとんどなくて、厳しいまでに自分の感情をアーカイブしていた。すごい。
文章の強さとはそういうところから生まれるし、日記文学とはかくあるべし。

こういう一切、見栄がない文章は、なかなか書けない(だって僕たち人間だもの)。
やるね。うん、大したもんだ。

そして、僕は土門さんの文章をもっと読みたいなと思い、だから土門さんに「僕が担当しますから、小説を書いてみませんか?」と言った。土門さんと僕のパートナーシップは、ここから始まったのだと思う。
彼女は書く人、僕は読む人。



僕は生来、怠惰が信条。
できることなら、風が抜ける木陰のハンモックで揺れながら、明けても暮れてもひたすらに、ただただ本を読んで暮らしたい。できることなら。

たとえば、僕が世田谷区の土地の半分を持つ大地主で、俗世を忘れてカスミを食べて生きていけるなら、あこがれのハンモック的生活ができるのかもしれないけれど、しかし。悲しいかな、僕は勿論そのような貴き身分ではない。「やつがれの額には汗、日が暮れて、見つめる汚れた掌かな」と、そのようにして、変わらぬ日々をしのいでいるというわけだ。まあ、これを読むみんなも、そんなに実情は変わらないと思うけれど。

僕は読むということを仕事にしているし、それが適職でもあると思うので、書くということを、あまりしない。そもそもできないし、得意ではない。自分が書くということが、そんなに好きでもない。だって、自分が書いた文章は既視感のある自分のアイデアだもの(深く深く、心の海にダイブして、自分の知らない自分を見つけるということは、ある。確かにある。しかし、僕が書く散文程度は、浅瀬でチャプチャプ遊んでいるようなものだから、そういう文学的自己探索とは、まったく別物だ)。

それでもこのように、僕の文章が皆さんのお目汚しをすることになるのは、編集者という存在がいるからだろう。編集者とは、なんとも、もの好きな連中で「あなたの文章が読みたいのです」と言い続ける変人たちだ。
書くことから逃げ続けてきた僕が、このように文章を書いているのも、そういう存在がいるからだと思う。
そもそも! 僕と土門さんの出会いについてなんて、ゴシップにもならない。僕の文章には文学的価値もない。それを、いったい誰が読みたいと言うのだろう、ねえ? 僕にはまったく理解できないけれど、しかし編集がそれを読みたいと言うなら、まあ、少なくとも読者がひとりはいるわけだ。

「あなたの文章が読みたいのです」と言うのは、編集者の最初の仕事だ。心得と言ってもいいかもしれない。
僕は土門蘭の文章をもっと読みたいと思ったので、「あなたの文章が読みたいのです」と言い続けることにした。彼女の文章は文学的価値がある。誰かの人生を救う強さがある。そして彼女自身が書きたいと思っている。
書きたい人がいて、読みたい人がいる。
要するに本というものは、そのようにして作られる。ほかにもいろいろと要素や事情があるかもしれないけれど。

もちろん、読みたい読みたいと言うだけで入稿されるなら、あるいは目方で男が振れるなら、こんな苦労はないだろう。男はつらいよ。性差は関係ないけれど、つまり、編集者には心得だけでなく、テクニカルな役割もあるということだ。

裏方仕事について、おもてで語るのは野暮だと思うけれど、編集という技術は、要するに「共感のキャリブレーション」だ。

たとえば、文芸作品は「作家が書きたいもの」を書くのが一番いい。作家が美しいと思うもの、作家の強い悲しみやよろこび、作家を捉えて離さない興味と興奮、そういうものを書いた文章は強くなる。しかし「作家が書きたいもの」が「読者が読みたいもの」から乖離しすぎたなら、その本は長く読まれない。

だから「作家が書きたいもの」と「読者が読みたいもの」という、ふたつの円の重なりを増やしていく必要がある。それを、完全に重なったひとつの円になる、その直前まで持っていく(技術的な話をすると、完全に重ねないほうがいい)。そのために読者が「作家が書きたいもの」に共感できる部分を耕したり、膨らませたりする。共感に邪魔な部分は刈り込んでいく。そのようにして「作家が書きたいもの」と「読者が読みたいもの」のベン図の重なりを増やしていく。これが、要するに「共感のキャリブレーション」という行為だ。つまり編集。

まあ、カッコつけたように聞こえるかもしれないけれど、つまり「作家が何を書きたいのかを想像して、確認して、もっと読者に伝わる可能性があるのなら、作家に改稿を提案していく作業」ということ。とてもシンプルで、それを何度か繰り返せば、本ができる(やったぜ!)。
これは、作家へのプレゼンテーションだし、作家とのコミュニケーションだ。
「言いたいことを言う」のではなく「提案を理解してもらう」こと。たったひとつの冴えたやりかた。

編集者にはささやかだけれど、それでもある程度の権限があるから、小さな権力やエゴを振り回してしまう危険性がある。「あなたの文章が読みたいのです」とは「自分の読みたい文章を書いてほしい」ということではない。そこは、ご用心。あくまで、文章は作家が書くもの。

どうしても自分が読みたい文章があるなら、自分で書けばいい。
作家を自分の表現手段にしてはいけない。
これが、編集の最後の心得かもしれない。



さて、とにかくそのようにして、最初に出会った夏から指を折れば2年。
おつかれさま。土門蘭は、彼女の中の最初の小説を書き切った。

僕はずっと伴走したけれど、彼女に肩を貸したり、もちろん背負ったりなんてしていない。
土門蘭はたったひとりで「自分の書きたいもの」を書き切った。長距離ランナーのように。額から汗を流しながら、膝から血を流しながら、ひとりで走り切った。もしかしたら、目からは涙も流れていたかもしれない。ゴールテープを切るときにはフラフラで立っていられないくらいだったから。

改稿は6回。
僕のすべての赤字に応えてくれて、もう、ひとつも赤は残っていない。
文章のうまい彼女だから、土門蘭の書きたいものは、読者が読みたいものを、最初からとらえていた。普遍的な時代性もあり、必要な要素は、初稿にほとんど書かれていた。
それらを、丁寧にひとつずつ膨らまして、2年。

物語のタイトルは『戦争と五人の女』という。
赤い装釘。女性についての小説。確実に誰かの人生を変えるであろう、強い文章。
ここまで読ませておいて恐縮ではあるけれど、僕の駄文やアイデアや戯言なんかよりも、ぜひ、その小説を読んでほしい。そうすれば、彼女の文章を読みたいと思った、4年前の僕の気持ちが理解できると思う。もっというと僕の「土門蘭との第一印象」を追体験できるから。


きっと、出会いにも、別れと同じように、身体的なものと記憶的なものがあるんだろうな。
真夏の妊婦さんだった土門さんが、身体的な第一印象。
土門蘭の文章を読んだのが、記憶的な第一印象。

「土門蘭の文章を読む」という記憶的な第一印象を、僕は今日も、繰り返し彼女の文章を読むたびに思い出せる。新しく書く文章を読むたびに。そのような文章は読んでいて、とてもいいものだって思う。

POSTED

2020-11-16

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